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意味を問わない場所の力【阿比留久美さんインタビュー】

社会のさまざまなところで使われている「居場所」という言葉。幅広く使われているあまり、むしろ居場所が本来持っている力や性質が見えにくくなっている面があるのではないでしょうか。

今回は『孤独と居場所の社会学~なんでもない〝わたし″で生きるには』(大和書房)や『子どものための居場所論』(かもがわ出版)などの著作がある、社会教育学者の阿比留久美さんにお話を伺いました。

本来の「居場所性」とは何なのでしょうか。

──阿比留さんが「居場所」という言葉で表したい場や状態というのはどのようなものでしょうか?

居場所は当事者がそこにいたいと思う場所、居れる場所というところに本質があると思います。その上で、そういう場所がどういう場所かを考えたとき、「過剰な意味が付与されない」ということが大事になってくるのではないでしょうか。

ただ、個々人のことを考えたとき、役割を与えられることが居場所につながることは多いと思います。例えば学校の部活だったら、私がマネージャーをしていることで部活がサポートされていきますよね。そこに自分の存在意義があることもあります。もしくは家の長女として妹弟たちの面倒を見ることが存在意義になったり、自分の居場所を見出したりすることもあります。役割や出番みたいなものがあることで、そこが居場所になることもすごくあると思っています。

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「意味を問われない場所」としての居場所

とはいえ私が居場所のことで注目したいのは、「意味を問われない場所」としての居場所です。社会と日常に意味が溢れすぎてて私は苦しいなと思うところがあるからです。あらゆるものに意味が付与されて、存在価値の証明を求めていく社会に対する言挙げとして居場所が生まれてきた経緯を考えると、意味があるから居場所は社会に必要なんだというように意味が付与されてしまうと、むしろ本質から遠ざかってしまうのではないかという気がしています。

──現代では「何者かでなくてはいけない」という圧力が強いという背景があるということでしょうか

そうだと思います。「意味の過剰」みたいなものが現代には溢れてるような気がしています。政策で言われている居場所づくりは、常に意味や目的が付与されているわけですよね。地域共生のためとか、若者が自立していくためとか、障害者が社会参加していくためとか。そういう居場所の使い方もあっていいと思いますが…このあたりは葛藤しています。

下からつくっていく居場所

──居場所であることを上から名付けられて、評価軸を設けられてしまうことがとても多い気がします

学習支援とか子ども食堂は10年の間に激増しています。居場所づくりとして名を与えられてお金もつくし、社会的承認も得られる。社会的意味付けも付与される。もちろんそういう活動は大切ですが、居場所にかかわりたい人たちが、評価される居場所づくりのなかだけにどんどん回収されていってしまうのはもったいないなと。反対に脱社会的評価という軸があってもいい気がします。

居場所はいろいろな機能を果たし、これからも果たしていくと思います。でも居場所が果たす機能というのは結果的なものであって、意図された目的を設定されてつくられるものではないのではないでしょうか。最初から規定されてしまうと、飼い慣らされていくこと、自由を奪われていくことに繋がりそうだなと危惧してしまいます。

人によって機能が変わる

訪れる人たちによって居場所がつくられて、紡がれていくのだとするならば、訪れる人たちの状況が変わっていったり、訪れる人たち自体が変わることによって果たす機能が変わっていくことが居場所の本質だと思います。

──私の住む場所の近所にはファーストフード店が一件しかありません。でもその店が平凡な日常から解放される、ある種の居場所になっていることもありますよね

それでいうと居場所には3軸があるんじゃないかと思っています。ひとつはファーストフード店やファミリーレストランといったお店。2つ目は公的な場所。3つ目は個人がつくる集まり。いままで話していたことは、公的な場所と個人がつくる集まりの話でした。しかしファーストフード店やファミリーレストランは、つくる側があらかじめ目的を設定せずに人が来ることができるので、実はより居場所的になりうる可能性があると思うんです。商業の論理に基づけば、意味とか目的は問われなくなるからです。

難しい居場所の参入障壁

すごく難しいのは居場所への参入障壁をなくしていこうと思うと、無料で行けるように公が居場所をつくりましょうとなりますが、お金の障壁をなくすと今度は目的や意図を設定しなければならないという障壁が出てくる。経済の障壁や意味や目的の障壁を超えるような居場所がどういう風に成立するのかというのは、すごく面白いポイントなんじゃないかと思っています。

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──そういう意味では、D×Pが運営しているユースセンターは経済や目的の障壁を超える試みだと思っています

確かにそうかもしれません。D×Pさんは寄付を集めてで活動されてますよね。だからこそミッションをぶらさずに活動できるし、無理なことはしないでいいところがあるんじゃないかなという気がしています。本当に若者に対して誠実に応えようとしたら、センターのキャパシティを超えそうになったときに緩めることも選択肢としてはありますよね。

応答責任に応える

場所によるかと思うのですが、常に不十分な対応であろうがいつも空いてるよという場として存在することに応答責任性を見出す場合もあれば、D×Pのユースセンターのように来てくれた子たちときちんと向き合えるだけの容量で向き合えますよと開設時間とか日数を減らすのも応答責任の応え方としてあります。

どちらも間違いじゃないと思うんですけど、その決定権を団体、組織が持っていることは自分たちの居場所でなくならないためにすごく大事な気がしています。言い換えれば、スタッフとか運営側が自分たちでどうしていくかということの決定権を誰か第三者に委ねないことがすごく大事だと思います。なのでD×Pのようにそれができるというのはすごく難しくて、稀有な例だなと思います。

自分が問題だと思うことを言葉にしていく

それから、自分たちの居場所の決定権を手放さないためには、自分が問題だと思うことは何なのかについて、自分で言葉を獲得していくことも大切だと思っています。同時に、社会が問題にしてることをそのまま受け入れないということも大事です。社会問題って何だろうという問いに対して、社会で問題だと認識されたことが社会問題なのだっていう風に言ったりすることがあります。

でもそれだと、権威化されたものが社会問題にされてるだけなんですよね。まだ権威化されていない、社会的承認を得てない社会問題もある。社会が問題としていることに対応するだけじゃなくて、私が自分の日常生活のなかで考えている疑問とか問題みたいなことに取り組むということが、すごく大事なのではないかと思います。

このインタビューはZoomで行ないました

例えばD×Pは、居場所がなくて路上に集まっている子たちってふらふらして遊んでる子たちでしょという社会通念に対して、「いや、そうじゃないよね」っていう風に訴えかけていますよね。D×Pがたくさんの個人寄付を募れていることは、実は自分もそう思っていたという人たちの気持ちを呼び起こしているのかもしれません。 だから私もうっすら思ってたんだよねという人たちの参加をさらに広げていくためにも、自分がうっすら思ってること、これどうしてかなとか、このままでいいのかなと思うことに取り組むことはとても大事なんじゃないかと思っています。

インタビュー・執筆:青木真兵/編集:熊井かおり

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